季語が石鹸玉の句

March 1431997

 春光へすべり落ちたる領収書

                           岡田史乃

スにでも乗ろうとしたときだろうか。財布から小銭を取り出そうとして、中の領収書がひらひらと滑り落ちてしまった。他人から見ればほほえましい光景だが、領収書というものは、当人にとってはけっこう生々しかったりする。それが明るい春の日差しのなかに舞うということになると、生々しさが一瞬気恥ずかしさに転化する。束の間の微妙な心の揺れを描いていて、味わい深い句だ。作者には、この種の繊細な神経に触発された作品が多い。「繃帯の指を離れよしゃぼん玉」「ぼたん雪机の上のオブラート」など。『浮いてこい』所収。(清水哲男)


May 2751998

 シャボン玉吹く東京の風にのせ

                           小山 遥

者(女性)は高松市在住。履歴を見ると、生まれも育ちも高松だ。高松と聞くと、いつも私は故人となった詩友の佃学を思い出してしまう。彼は高松の田舎性を慨嘆しつつも、結局は愛して止まなかった。それはともかく、この句は高松から上京した際の寸感だろう。シャボン玉での遊び相手はお孫さんだろうか。ひさしぶりの邂逅を楽しんでいる場面だが、ここで作者が相手の存在をふっと瞬間的に忘失しているところに、句の輝きが読み取れる。東京という他郷の風にのせて、シャボン玉を吹いている自分という存在の不思議に、作者の気持ちが溶けこんでいる。旅先での句は世間に数えきれないほど多いが、他郷での発見を欲張りすぎる傾向があり、その点、この句は欲張っていない分だけ、逆に心象がよく伝わってくる。私のような東京人にも、あらためて「東京の風」を新鮮に思い起こさせてくれた佳句である。『ひばり東風』(1998)所収。(清水哲男)


February 2422002

 波羅蜜多体育館にしやぼん玉

                           摂津幸彦

語は「しやぼん玉(石鹸玉)」で春。いかにも春らしい景物だ。「波羅蜜多(はらみった)」は仏教用語、「波羅蜜」とも言う。「宗教理想を実現するための実践修行。完成・熟達・通暁の意であるが、現実界(生死輪廻)の此岸から理想界(涅槃・ねはん)の彼岸に到達すると解釈して、到彼岸・度彼岸・度と漢訳する。特に大乗仏教で菩薩の修行法として強調される。通常、布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を立てるが、十波羅蜜を立てることもある [広辞苑第五版] 」。さて、私などはいい加減に「体育館」と付きあっただけだが、考えてみれば、あそこもまた心身の修業道場である。運動能力の高い友人たちは、みな真剣にトレーニングに励んでいた。何が面白くて、そんなに苦しい練習を繰り返しているのか。半ば冷笑していたけれど、彼らには波羅蜜多の苦しさと同時に恍惚の境地もあったようだと、今にして思われる。そんな修業の場に、開け放った窓からふわりふわりと「しやぼん玉」が舞い込んできた。こちらは、難行苦行などとは無縁の気楽そうな軽さで浮遊している。作者は、まずはこの対比ににやりとしたはずだ。だが、待てよ。波羅蜜多の人は、まだ彼岸への過程に遠くあるわけで、一方の軽々と浮遊する物体は、ほとんど彼岸に到達しようとしているのではなかろうか。どちらが完成熟達の域にあるのかといえば、誰が見てもしやぼん玉のほうである。そして、間もなくしやぼん玉はふっと姿を消すだろう。彼岸に到達するのだ。のどかな春の日の体育館の何でもない光景も、摂津幸彦の手にかかると、かくのごとくに変貌してしまう。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)


March 3132002

 しやぼん玉西郷公を濡らしけり

                           須原和男

語は「しやぼん玉(石鹸玉)」で春。東京の花の名所、上野の山の西郷隆盛の銅像前。家族で花見に来た子供が、盛んにシャボン玉を吹いている。何気なく見ていると、美しい五色の玉が、風の具合で西郷さんに当たっては、ふっと消えていく。大きな西郷像に、束の間小さくて黒く濡れたあとが残る。それを「濡らしけり」と大仰に言ったところが面白い。で、いかめしい西郷さんの顔をあらためて振り仰ぐと、どことなくこそばゆそうだ。うんざりするほどの人、人、人で混雑しているなかでの、即吟かと思われる。花疲れの作者が、思わずも微笑している図。どこにも花見の情景とは書かれてないけれど、花見ででもなければ、子供が西郷公の下でシャボン玉で遊ぶわけがない。たいていの子供は花などにはさして関心がないので、このシャボン玉は親が退屈しのぎにと買い与えたのだろう。ところで花の上野は別格として、各地の「桜まつり」担当者などによく聞くのは、人寄せでいちばん苦労するのが、子供対策だそうだ。桜が咲けば、大人は放っておいても集まってくるけれど、子供はそうはいかない。春休み中なので、子供にサービスをしないと、親も来(られ)なくなってしまう。そこで、子供たちが喜びそうなアトラクションを必死に考える。テレビで人気のキャラクター・ショーを実現するには、半年以上も前に仕込まねばならない。だから、今年の東京のように二週間も開花が早まると、真っ青になる。子供のために仕込んだ芸能契約を反古にできないので、泣く泣くの「桜まつり」となる……。来週末の東京では、あちこちでそんな「葉桜まつり」が見られる。ENJOY !『式根』(2002)所収。(清水哲男)


March 3032005

 水金地火木土天海冥石鹸玉

                           守屋明俊

語は「石鹸玉(しゃぼんだま)」で春。「水金地火木土天海冥(すい・きん・ち・か・もく・ど・てん・かい・めい)」は、水星から冥王星まで,惑星を太陽に近い順に並べた覚え方だ。昔,小学校の教室で習った。先生は「ど・てん・かい・めい」と平板に流さず,この部分を「どってんかいめい」とまるで一語のように発音されたことを覚えている。とかくあやふやになりがちな後半の部分を,強く印象づけようという教授法だったのだろう。おかげて私たちは、惑星というと、前半よりもむしろ「どってんかいめい」のほうに親近感を覚えることになった。さて、掲句。楽しい連想句だ。いくつも「石鹸玉」が飛んでいるのを眺めているうちに,作者はふっと「どってんかいめい」を思い出したのだろう。といって、石鹸玉に宇宙的な神秘性を感じているのでもなければ、両者ともにいずれは消滅してしまうという共通点にものの哀れを感じているのでもない。ふわふわと飛び交う五色の玉の仲間に、巨大な惑星の玉を入れてやることにより,春のひとときの楽しい気持ちがいっそう膨らんでくる。そんな作者の弾んだ気持ちを、読者にもお裾分けした句とでも言うべきか。上五中七で何事がはじまるのかと思わせておいて,最後に可愛らしい「石鹸玉」を差し出してみせた茶目っ気もよく効いている。漢字のみの句は理に落ちる場合が多いが,それがないところにも好感を持った。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


October 17102006

 小鳥来るはじめて話すことばかり

                           明隅礼子

語「小鳥来る」は、秋に渡ってくる鳥のなかでも鶇(つぐみ)、鶸(ひわ)などの鳥に限定されて使われる。身体の小さな鳥たちが賑やかにさんざめく様子もさることながら、「コトリクル」の愛らしい響きには華やぎがあり、続く「はじめて話すことばかり」の調べにも明るいきらめきを感じる。並ぶ句に「胎の子の四方は闇なり虫の夜」とあることから、掲句もおそらくお腹の子へ語りかけているのだと推察する。というのも「話す」の文字を使ってはいても、どこか人の気配を感じさせない静謐さを漂わせているからだ。とかく秋という季節が持つ背景が、ひとりきりの空気を引き出すからだろうか。小鳥たちが頭を寄せ合う景色をゆるやかにまとい、静かにひとりごちている作者の姿がある。そこから見える風景や、自分のこと、家族のこと、そしてどんなにかあなたをみんなが待っていること。清らかな秋の光りに包まれ、それは歌うようにいつまでも続き、お腹の子が耳にするはじめての子守唄となっていることだろう。精神的な父親の自覚と違い、母親の自覚は常に肉体的なものだが、女性も出産と同時に瞬時に母親になるのではない。自分のなかにもうひとつの命のある不思議さを躊躇なく受け入れたときから、こうして胎児と濃密なふたりきりの時間をじゅうぶん過ごしつつ、母性は茂る葉のように育っていくのだろう。「はらはらと麒麟は青葉食べこぼし」「しやぼん玉はじめ遠くへ行くつもり」なども羨望の句。『星槎』(2006)所収。(土肥あき子)


April 0642011

 電柱をめぐりかくれぬシャボン玉

                           畑 耕一

ャボン玉は、やはり「石鹸玉」とは書かずに「シャボン玉」か「しゃぼん玉」と書いて、ふんわりと春風にかるーく飛ばしてみたいものである。「シャボン玉」と表記すると、あのキラキラ感が伝わってくるし、「しゃぼん玉」と表記すると、ふんわりふわふわしたやわらかさが強調される。「石鹸玉」と表記すると、ゴワゴワした固い感じがしてなかなか割れそうにない。表記によって、たった一つの日本語の微妙な奥深さが感じられてくる。寒さの冬からようやく解放されて、飛ぶシャボン玉の存在は一気に春を広げてくれる。吹き飛ばされたシャボン玉が、電柱にまとわりつくように見え隠れしながら、空へのぼっていく様子が見えるようだ。「シャボン」はポルトガル語。現在は通常「シャボン」と呼ばれるよりは「セッケン」と呼ばれることが多いのに反して、「シャボン玉」という呼び方がしっかり残っているのはおもしろい。耕一は俳句をよくして、句集に『露坐』『蜘蛛うごく』があり、春の句に「鶯や額ヒにのこる船の酔」がある。成瀬桜桃子の「しやぼん玉独りが好きな子なりけり」も忘れがたい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 1732012

 サフランの二つ咲けども起きて来ず

                           遠藤梧逸

のサフランはハナサフラン、クロッカスのことだろう、昭和四十七年三月十一日の作。並んで〈シャボン玉ふと影消してしまひけり〉があり、その前書には「発病一時間にして空し」と。あまりにあっけなく逝ってしまった妻、呆然とした喪失感に包まれている作者にとって、クロッカス、というどこか弾んだ響きは、この時の心情にはそぐわなかったのだろう。そして、二つ咲けども、はやはり、二つ、なのであり、一つ、では、時間が感じられず、三つ、では長すぎる。『青木の実』(1981)と題されたこの句集、自筆の句と題字が、少しくすんだ柔らかい緑で、実、の一字だけがしっとりとした赤という、素朴だけれど美しい装丁の一冊である。(今井肖子)


March 0532013

 しやぼん玉兄弟髪の色違ふ

                           西村和子

は父親に似て、息子は母親に似るものだとよく言うが、自分と弟を引き比べてみても、確かにその通りだと思う。同性の兄弟、姉妹の場合も、大小の違いだけではなく、どちらかが父親と母親の面差しの影響を大きく受けているようだ。掲句では、きらきら輝くしゃぼん玉を見つめることによって、光のなかの兄弟の違いを際立たせる。小さな兄弟が異なる人格を持っていることは当然でありながら、作者はどこか不思議な気持ちで眺めている。そして、髪の色の差は、父と母という存在を見え隠れさせ、健やかにつながっていく世代のたくましさも感じさせているのだ。ところで髪といえば、『メアリー・ポピンズ』のなかで、髪をストレートにするか、カールにするか、赤ん坊のとき春風に頼むのだという話しがあり、「ああ、自分は頼み忘れたに違いない」とがっかりした覚えがある。今でも、毛先がくるっと巻いた小さい子を見ると「この子はちゃんと頼んだのね」と思うほどだ。『季題別 西村和子句集』(2012)所収。(土肥あき子)


April 3042013

 落椿しばらく落椿のかたち

                           斉田 仁

花を称するには「散る」が一般的だが、椿だけは「落ちる」という。花のかたちが似ている椿と山茶花も、花の終わりで容易に区別ができる。花弁が一枚ずつはらはらと散る山茶花に対して、椿は花冠と雄蕊ごと落ちる。そして根元の部分が重いため、椿はどれも花を見せるように仰向けに落下する。そこが土でも、草でも、石の上でさえも、かたくなに天を向いて落ちる。そう痛んだ様子も見せず、黄金色の蕊をきらめかせながら、それはまるで地から咲いた花のような、不思議な美しさを湛えている。椿は固いつややかな葉で覆われているため、実際の花数は見た感じよりずっと多いことから、樹下が深紅の椿で敷き詰められているような幻想的な景色に出会うこともある。また、江戸時代に描かれた『百椿図』は、ありとあらゆるものに椿を取り合わせた絵巻物だ。どれも花を生けるというより、配置されているように見えるのは、やはり落ちた椿に抜き差しならぬ美を見出していたからだろう。〈朧夜は亀の子束子なども鳴く〉〈シャボン玉吹く何様のような顔〉『異熟』(2013)所収。(土肥あき子)


January 1512016

 可惜夜のわけても月の都鳥

                           黛まどか

惜夜(あたらよ)は明けてしまうのが惜しい夜という意味。余白に恋の一夜を感じさせる。川は大川(隅田川)の波間に岸辺の灯り、雲間には月光が辺りを照らしきらめいている。眠れないのか都鳥が乱舞している。因みに都鳥はユリカモメのこと。冬鳥で河口近くや海岸に生息し、春になると頭が黒くなる。伊勢物語の「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」と昔から恋にからめた鳥として知られる。語りても語り尽せぬ二人の夜が更けてゆく。月よ都鳥よ値千金の今宵の時を止めてくれ。可惜夜は可惜夜ゆえに尊さがあるのだが。他に<行きたい方へそれからのしゃぼん玉><さくらさくらもらふとすればのどぼとけ><さうしなければ凍蝶になりさうで>など所載。『忘れ貝』(2006)所収。(藤嶋 務)




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