March 1632001

 母に抱かれてわれまつさきに囀れり

                           八田木枯

恋の句。赤ん坊が小鳥のように「囀る(さえずる)」わけもないが、若き母親の期待に応えて、あのときに僕は一生懸命に言葉を発していたのですよと、いまは亡き母に訴え、賛意を求めている。でも、僕の声は人間の言葉にはならず、単なる囀りのようでしかなかったかもしれない。でも、とにかく僕が「まつさき」でしたよね、お母さん……。僕は、いまでもそのことを誇りに思っています。と、この心情にはいささかの狂気も感じられるが、しかし、亡き母を偲ぶ人の気持ちには、狂気があって当然だろう。狂気が言い過ぎならば、通常の世間とのつきあいでは成立せぬ感情が、母との関係においては、楽々と発生するということだ。母親とは、なにしろ世間を知るずっとずっと前からのつきあいだもの……。このときに、一方の親である父親は、いわば「最初の世間」として立ち現れるのだろう。そこが、母親と子供との濃密な関係を持続させる理屈抜きの要因だ。だから、同じ作者の「両手あげて母と溺るる春の川」の句にしても、よくわかる。母親とであれば、ともに溺れたってよいのである。両手をあげているのは、嬉々として溺れている狂気の世界を積極的に象徴してみたまでだ。「春の川」が、その心情に拍車をかけている。私の場合は母が存命なので、作者の狂気を十分に汲みとるわけにはいかない。でも、年齢のせいか、母への思いがこのように純化されていく心理的プロセスだけはわかるような気もしてきた。同じ作者に、こういう句もある。「井戸のぞく母に重なり夏のくれ」。妖しい狂気が漂っていて、三句のなかではいちばん印象深い。『於母影帖』(1995)所収。(清水哲男)


June 2462001

 麦藁帽妙にふかくて寂しいぞ

                           八田木枯

ァッショナブルな「麦藁帽」はおおむね浅くできているが、実用的な日除けとしてのそれは、つばも広くて深い。中世ヨーロッパの農民を描いた絵にもよく出てくるように、日本でもいまだに農家の必需品である。物の本によれば、ギリシャの昔から、既に実用的に用いられていたのだそうだ。農家の子供時代に、なんとなく父親の「麦藁帽」をかぶってみたことがある。子供用はなかったので(子供が畑仕事に出るときは「学帽」だった)、たわむれに近い好奇心からだ。かぶってみたときに感じたのは、まさに「麦藁帽妙にふかくて」だった。「大きくて」というよりも「深くて」の印象。帽子というものは不思議なもので、他人がかぶっているのを端から見ているだけでは、かぶっている人の心持ちはわからない。身に着けるものは、眼鏡などにしても、みなそうなのかもしれないけれど、極端に言えばその人の人格に影響するようなところがあるようだ。変哲もない「学帽」だってお仕着せではあっても、学校には無縁の今かぶることがあれば、それこそ「妙」な気持ちになるだろう。他人の「麦藁帽」か新しく求めたそれかは知らねども、思いがけない目深さに、自然にきゅうっと「さびしいぞ」と絞り出している作者の心の動きは、よくわかる。『汗馬楽』(1978)所収。(清水哲男)


July 2672002

 寝冷人まなこで凝と我を見る

                           八田木枯

語は「寝冷人(寝冷え)」で夏。「寝冷子」という季語もあるほどで、子供はしばしば寝冷えするが、句の「人」は大人だろうか。いずれにしても家人であり、あまり体調がよくないようだ。といって大病を患っているわけでもないから、気遣うともなく気遣うという感じで当人を見やると、「凝(じっ)と」見返してきた。「まなこで」が効いている。疲れてだるいその人の「まなこ」は、何かを訴えたり、表現しようとしているのではない。ただ、じいっと見返してきただけなのだ。瞬時かもしれないが、お互いの「まなこ」が吸い付き吸い付かれたような関係となり、一種の真空状態が生まれたような感じになる。そこには、何のコミュニケーションもない不思議な関係ができあがり、自然にすっと目を外すことができなくなる。相手の「まなこ」だけがぐっとクローズアップされてきた様子を、「まなこ」で見ると押さえたわけだ。こういうことは、日常的にときどき起きる。相手が病人ではなくとも、意味なく目が合い吸い付き吸い付けられてしまう。あれはいったい、いかなる心理的要因によるものなのか。要因はともかく、こういうことをきちんと書きこめる文芸は、俳句以外にはないだろう。「俳句」(2002年8月号)所載。(清水哲男)


July 0572003

 外掛けで父を倒せし夏みじかし

                           八田木枯

要があって、このところ父母兄弟姉妹など肉親を詠んだ句を眺めて暮らしていた。すぐに気がついたのは、なかでも父親の句が極端に少ないという事実だった。母親の句は無数にあれど、父句は本当に少ないのだ。それも自分が父親である感慨を詠んだ句が大半で、直接当人の父親を対象にしたものとなると微々たるものと言ってよい。したがって、掲句なども珍重すべき作品である。たわむれに「父」と相撲を取り、生まれてはじめて父親に勝った。しかも「外掛け」だから、勝ったときの父の身体は惨めにも作者の真下にあった。勝ったと言うよりも、倒してしまったというのが実感だ。肉体的にも精神的にも強き者の象徴のような父親が、こんなにも脆かったとは……。あまりにも哀しく複雑な衝撃で、あの年の夏のことは、この相撲のことしか覚えていない。「夏みじかし」と詠んだ所以である。話は遠回りになるが、昨日、二年前に急逝した友人・宮園洋の遺著『洋さんのあっちこち』(れんが書房新社)が届いた。宮園君は優れたイラストレーターであるとともに、多くの詩集などのブックデザインも手がけ、晩年は岡山で活動した。この本には、遺児である姉弟の父親追悼文が栞として挟み込まれており、タイミングがタイミングだっただけに、私はアッと思った。姉の望見さんの文章のタイトル「お父ちゃん、わかっているよ」にはっきりしているように、弟の一文もまた、生前の父を理解していたかどうかにこだわっているのだった。宮園君が子供たちにどんな具合に振る舞っていたのかは知らないが、すなわち、それほどに父親とは理解しにくい存在なのではあるまいか。と、一般論としても言えるような気がしたからだ。掲句に戻れば、このときに作者は間違いなく父親のある側面を理解した。しかし、一度理解したらいつまでも記憶として残るほどに、裏返せば、句は平生の父親を理解するのが困難なことをも示唆している。『あらくれし日月の鈔』所収。(清水哲男)


August 0982007

 原爆忌折鶴に足なかりけり

                           八田木枯

島に続き62年前の今日、11時2分長崎に二つ目の原爆が投下された。先年亡くなった義父は、広島の爆心地近くで被爆したが、近くにあった茶箪笥が熱線と爆風を受け止めたため九死に一生を得た。今も使われている箪笥の裏側はあの日の閃光で真っ白に変色している。ニュースやドキュメンタリーで広島、長崎のきのこ雲の映像を見るたび、普段どおりの生活を営んでいた数十万の人々が巻き込まれた苛酷な運命を思い胸が痛くなる。熱線に焼かれ火炎地獄の中で亡くなっていった人々の悔しさと無念さはいかばかりだったろう。かろうじて生き残った人々の心と身体にも深い傷が残った。今年も鎮魂の折鶴が何万羽となく被爆地へ届けられたことだろう。私の職場でも各机で鶴が折られ箱に収まった。「折鶴に足なかりけり」と、「脚」ではなく「足」と表記したことで、折鶴には不似合いな生身の足を感じさせる。おびただしく折られる鶴のことごとくに足のない事実は、あの日火傷を負い、建物の瓦礫に埋まり、身動きが出来ぬまま亡くなっていった数万の人々の姿と響きあう。それは原爆の悲惨な現実を思い起こさせると同時に、戦後62年を経た今、生きながらえた私たちが折鶴に託する祈りは何なのかと読み手の胸にせまってくるのだ。「現代俳句」(2005年7月号)所載。(三宅やよい)


December 05122008

 雪嶺の古びゆくなり椀のふち

                           八田木枯

の山脈の峰々を木の椀の縁に並べてみている。この椀はなんとか塗りの逸品などではなく、日常、飯など盛って使い古した椀だ。椀とともに人間の営みがあり、人生が展開し、それを外側から大きく包みこんで雪嶺がある。雪嶺が山ばかりの国、日本の象徴だとすれば、椀は貧しい戦後の日本人の生活の象徴。「私」の老いもそこに重ねて刻印される。ひとつの椀とともに日本も私も古びてゆくのだ。作者は山口誓子門。誓子の言う「感性と知性の融合」をまた自己の信条とする。「雪嶺」は概念や象徴としての雪嶺。そのときその瞬間の個別の雪嶺とは趣きを違える。感性と知性のバランスに於いては、師よりも知性重視の傾向が見える。そこが個性。『あらくれし日月の鈔』(1995)所収。(今井 聖)


November 08112010

 いちにちが障子に隙間なく過ぎぬ

                           八田木枯

者は八十代半ば。寒い日だったのか、一日中外出もせずに部屋に閉じこもっていたのだろう。時間の経過を感じるのは、ただ障子を隔てた外光の移り行きによってである。日中は日差しがあたり、木などの影も写る。それがだんだんと淡くなって薄墨色に溶けてゆき、やがて暗くなってきた。作者はべつだん意識して障子を見つめていたわけではないのだけれど、そんな一日をふり返ってみれば、目の端の障子が雄弁に時の経過を物語っていたことを知るのである。まさに時が「隙間なく」流れていることを、障子一枚で表現したところに、この句の新鮮な味わいがある。しかも作者が、この句に何の感慨もこめていないところが、かえって刺激的だ。無為の一日を惜しむ気持ちも、逆に過ぎ去った時間を突き放すような韜晦の気持ちが生れているわけでもない。作者に比べれば若造でしかない私にも、老人特有のこの淡々とした心の動きはわかるような気がする。なお「隙間なく」の「間」は、原文では門構えに「月」の字が使われている。『鏡騒(かがみざい)』(2010)所収。(清水哲男)


December 06122010

 老人のかたちになつて水洟かむ

                           八田木枯

者八十代の句。身に沁みるなあ。若い読者からすれば「それがどうしたの」くらいの感想しか浮かばないかもしれない。しかし、老いを自覚した人間にとっては、はっとさせられるような句なのだ。水洟(みずばな)をかんでいるのは、他人ではなく作者当人である。背を丸くして、さほどの勢いもないかみ方である。誰でもそうだろうが、こういう「老人のかたち」はなかなか自覚しにくいものなのだ。周囲の目からはともかく、自分の老いを認めたくない意識も働くので、当人は自分がいかにも老人らしくふるまっていることにはなかなか気づかない。けれども何かの動作の折に、おやっという感じで気づくときが来る。「オレもトシだなあ」と「かたち」として自覚させられる。いったんそういうことに気がつくと、あとはいわば芋づる式に「そういえば…」と、生活のさまざまな場面での老いの「かたち」に気がついていくことになる。最初のうちこそなにがしかの悲哀感も伴うけれど、だんだんその「かたち」を受容し容認し、是認していく。このときに自分はまったき老人になったわけで、若い頃とは異なる所作にもどこか苦笑いのような感情とともに対応できていく。掲句は、そうした老いの機微を捉えたものだ。だから、最近の私などにはことさらに身に沁みるのである。『鏡騒』(2010)所収。(清水哲男)


March 0532011

 鶯もちいろを抓みていただきぬ

                           八田木枯

餅、うぐいす餅、うぐいすもち、鶯もち。それぞれ印象がずいぶん違う。餅、より、もち、の方がしっとりとした質感があり、うぐひす、より、鶯、の方が即座にその色と形が見える。色、は、いろ、とした方が、もちのなめらかさを損なわず、抓む、はその字にある「爪」によっていかにも、指でそっとつまむ、という感じがする。そして、食べる、ではなく、いただく。いただきぬ、とやわらかく終わることによって、ほんのりとした甘さが余韻となって残る。漢字か平仮名か、どの言葉を使うか、その選択によって目から受ける印象のみならず一句の余韻も変わる、ということをあらためて感じた。『俳壇』(2011年3月号)所載。(今井肖子)


April 1842013

 寝ぶそくの日や輝きて木の芽と鳩

                           八田木枯

田木枯少年句集には作者が10代の頃からの作品が収録されている。昭和初期若い俳人は俳句の世界で早熟な才能を現していた。昭和30年代の俳句の頂点ともいえる時代を支えたのは10代の頃より俳句を作り始めた俳人たちだった。石田波郷、三橋敏雄、伊丹三樹彦、みな10代で代表作といえる俳句を生み出している。俳句が若者と老人の文学と言われる由縁がそこにあるのかもしれない。さて掲句であるが、年を重ねると夜更かしするにも体力がなくなり翌朝はひたすら身体がだるいだけだが、緑のつやつやした葉っぱを噴きだす木の芽と鳩ばかりでなく寝ぶそくの若い肉体も季節のただ中で息づいている。私などは若い頃はひたすら自分の若さが疎ましかったが、この句集に収録されている句の数々は、若い時期にしかできない表現を俳句で定着させようとする意欲が感じられる。昨年逝去した俳人をしのぶ貴重な句集だと思う。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)


October 10102013

 豆菊や昼の別れは楽しくて

                           八田木枯

い先日、人と別れるのに「さようなら」と言ってその語感の重さにぎくりとした。数日後に顔をあわせる人や職場の同僚、親しい友人には「じゃあまた」と手を挙げて挨拶する程度の別れの挨拶であるし、目上の人には「失礼します」で日常過ごしていることに改めて気づかされた。よく人生の時期を季節に例えるけれど、自分の年齢も人生の秋から冬へ移行しつつある。一日の時間帯で言えば夜にさしかかりつつあるのだろう。人と別れるのは永遠の別れを常にはらんでいることを若い時には考えもしなかった。そう考えると掲句の青春性が眩しい。豆菊は道端の野菊のように可愛らしい小菊のことだろうか。はしゃぎながら別れる女子高生や、元気な子供たちが想像される。別れの言葉は?「バイバイ」って手を振るぐらいだろな。三々五々散ってゆく人たちの去ったあとの豆菊の存在が可憐に思える。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)


February 0222015

 夫婦となり空につめたき日が一つ

                           八田木枯

感だろう。不思議に思う人がいるかもしれないが、「夫婦」という存在は、ときに独身のそれよりも小さく感じられることがある。二人だから一人よりも、世界が大きいとは限らないのだ。「肩寄せあって」とも言うように、二人だけだからこそ、一人ひとりそれぞれのの場所は狭くて小さいと思うときがある。ましてや寒い冬のさなかともなれば、空を行く日の光りも鈍くてつめたい。「夫婦」たるものは、そんな頼りなげな天空の下で、たった二人で生きていくのだという思いに、つまり二人きりであるゆえの孤独感にとらわれるのである。「夫婦となり」は必ずしも新婚を意味しない。この世に生を享け、数々の偶然事や必然事の果てに、縁あってとしか言いようのない結婚までたどりついた二人の運命のようなものを指している。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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